旋盤の渡り職人 〜 藤川 重信
| 旋盤工 藤川重信の職歴は多彩だ 履歴書に十数カ所の工場名が並び一枚では収まらない 職場を渡り歩きながら、金属からプラスチック、大理石まで様々な材料を扱ってきた。 一カ所に二、三年いると新しい材料を削ってみたくなる、そんな時、職人仲間から「こっちの工場 助けてえな」と声がかかると、もうじっとしていられない。 「いい加減に落ち着いて」と五つ下の妻に泣かれたこともあったが「これがおれの性分」と 意志を貫いてきた
大阪製作所(八尾市楽音寺)にやってきたのは、還暦を超えた1994年の初夏。 大学で経営工学を専攻した後藤良一(40)が二代目社長となり農機具部品から半導体製造装置部品に 転換しようとしている最中だった。 先端分野への進出に、後藤は「コンピュ−ターのわかる若い人を」と考えていたが 人材確保は困難だった、そんな時ハイテク加工に負けない腕の旋盤士が近所にいると聞いた それが藤川だった。 コンピュ−ター制御のNC旋盤やマシニングセンターが所狭しと並んだ工場の片隅。 30年前から使われている草色のいかつい汎用旋盤が藤川の相棒となった 固定した金属をモーターで回しバイト(刃物)を当てる。シュルシュルと音を立て、キリコと呼ばれる 削りカスが線を引いて飛び散る。音に耳を澄ませば、うまく削れているかどうかがわかった。 仕上げた平板にスケールを当てれば、隙間からわずかに漏れる光でミクロン単位のゆがみが見分けられた NC旋盤には出来ない精密加工が次々と藤川に回ってきた「難問ばかり」と顔をしかめながらも 、バイトの当て方、モーターの回転数、キリコを逃がす方向といった段取りを自分で考え、ハードルを クリヤーするのは楽しかった。
10代の終わり頃には、仕事が速くて不良も少ない、工場でも一級の旋盤工で通った 23歳の時、兵庫県尼崎市に五坪の貸し工場を借りた、だが仕事は入ってこなかった 来る日も来る日も午前中だけで仕事が終わってしまう、自転車で走り回っても受注できない 「営業の才覚はないのか?」3ヶ月後藤川鉄工所の看板を掲げる夢を断念。 「腕一本で食うていく」 そう心に決めた。 街頭の鉄パイプ、製紙工場のロール、ラジエーター、パチンコの釘、・・・。 様々な物を切削加工した。行く先々で職人仲間が出来、また仕事の依頼が来た。 大卒のサラリーが1万円の時代に4,5万円の月給をもらった 60年代後半、NC旋盤が登場。数値を入力すれば素人でも削れる旋盤に、最初は仕事を 奪われる不安を感じたが、すぐに杞憂だとわかった 「機械は人のやったことの真似しかできない、数をこなすだけで、それ以上ではない」 そんな藤川らをずっとみてきた後藤は言う 「新しい物を作るのには、新しい技術が要る、そんな時に物を言うのは、ベテランの知恵と腕です。 彼らが自分の技術を少しづつ進歩させる事で、今のハイテク産業は成り立っているんだと思います」 昨年6月、藤川は胃ガンの切除手術を受けた。十五`やせた。自宅で静養する藤川に訪ねてきた後藤が言った 「一日一時間でも、二時間でもいい、来てくれませんか」 ものを削る、仕事でもあり生き甲斐でもある、死ぬまで機械の前にと思っている 「旋盤と離れた自分は考えられん」 11月、藤川は汎用旋盤機に向かった。 半年ぶりに握ったハンドルの冷たい感触。 手は自然に動き、油のしみた相棒はうなり声でこたえた。 |
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| 平成12年 1月4日 読売新聞 |
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| 平成13年8月5日、最後の”旋盤の渡り職人” 永眠 合掌。←クリック |